D1の歴史

D1開幕から現在に至る歴史をまとめました。

D1グランプリ2001

記念すべき第1回は、「ビデオオプション」の一つのコーナーとしてスタートした。
D1初のワークスドライバー誕生、のむけん。
もちろん、スポンサーは現在も同じ、ブリッツだ。車はER34スカイライン。
ブリッツ同様、最大手のチューニングメーカーであるHKS、アペックス、トラストも
新種のモータースポーツ、D1グランプリに目を光らせ始めた。
D1GP 2001のチャンピオンは、S15使いの谷口信輝だった。

D1グランプリ2002

HKS、アペックス、トラストはD1への参加を表明。
HKSは、谷口信輝を起用。もちろん、車はS15。
アペックスは、今村陽一を起用。車はアルテッツァ。
トラストは、平岡を起用。車はJZX100チェイサー。

ところが、めでたくワークスドライバーとなった今村は辛い思いをする羽目になる。
ニューマシンのアルテッツァは、うまく走れない、故障は多い。第1戦~第3戦で獲得したポイントはゼロ。
プロジェクト解散寸前に追い込まれたアペックスは、一か八かの賭けでマシンをFDに代え、第4戦優勝。

D1GP 2002のチャンピオンは、非力なハチロクのパワーを目いっぱい使った植尾だった。

D1グランプリ2003

だんだんとD1がメジャーになってゆく。選手、観客、スポンサーの数は続々と増してきた。
レーシングカーのようなカラーリングのマシンが増え、迫力は倍増した。

この年、なんといってもやはり印象に残ったのは「D1グランプリ in USA」だろう。
大勢の観客が集まり、会場は大盛況。日本の車文化であるドリフトは世界でも通用した。

D1GP 2003のチャンピオンは、富士とエビスで2連勝した、追走無敵のアペックスD1プロジェクト 今村陽一だった。

D1グランプリ2004

D1をよりメジャーにするため、新会社「D1コーポレーション」が発足。
これまで、ビデオの1コーナーだったD1は、正式にモータースポーツとして認知されるようになった。

この年は、お台場でD1が開催された。
これは、ドリフトを多くの人に知ってもらうことになっただろう。
D1GP 2004のチャンピオンは突然頭角を現した、トップシークレット 三木竜二だった。

D1グランプリ2005

モータースポーツとして認知されるため、レギュレーションや審査体制が整ってきた。副審制度や車速、角度センサーを備えたDriftBoxの採用などだ。
審査員だった織戸学がドライバーに転向し、RS-Rからスープラで参戦。

また、公道走行可能な車両に限定したD1ストリートリーガルが発足。一味違ったD1を楽しむことができるようになった。
D1GP 2005のチャンピオンは、最後まで末永と争いぬいた、風間靖幸だった。

D1グランプリ2006

ようやく、D1の運営も安定期に入ってきた。
ところが、HKS、アペックス(アペクセラ)の撤退をはじめ、D1が始まって以来の選手やチームの大異動があり、ランキングにニューカマーが増える結果になった。
さらに国際化が進み、マレーシアやニュージーランドにも進出した。

D1GP 2006のチャンピオンは、D1車両としては実績のなかったインプレッサを自由自在にコントロールした、チームオレンジ・熊久保信重だった。